【ジブリ映画】『火垂るの墓』の実話は現実より壮絶?原作作家・野坂昭如の生い立ち、映画との相違点を解説!
ジブリ史上最も暗い作品と言われる映画『火垂るの墓』は実話がベース?作者自身の実体験をもとにした原作小説や、映画と原作の相違点などを解説します。節子の死亡理由は栄養失調ではなかったなど、戦争体験世代の実話が色濃く反映された本作。一方で、実は裕福な家庭だったのではないかという説も。『火垂るの墓』の作者・野坂昭如の生い立ちを踏まえて、物語の制作秘話について見ていきましょう。本作が「反戦映画か」という問いについて高畑勲と宮崎駿が言及しているので、その点についても触れていきます。
こんにちは、Reneです。
1988年公開の高畑勲監督によるジブリ映画『火垂るの墓』は、神戸大空襲で母を亡くした14歳の少年と4歳の妹が、たった2人で出征した父の帰りを待ちながら生き抜こうとするストーリー。
ファンタジーやノスタルジックな要素が強い作品を多く手掛けてきたスタジオジブリ作品の中でも、異例の作品であり、観た後にずっしりと重い気分に包まれるのが『火垂るの墓』です。
戦争の痛ましさや、どんな過酷な状況下でも生きることを諦めない子ども達の姿を見て、「これは実話なのか?」という疑問を持った人も多いかもしれません。
『火垂るの墓』の原作者である野坂昭如氏の戦争体験をベースに、物語が制作されたようなのですが、詳しく見ていくと、映画とは違う部分も多くありました。
この記事では、作者・野坂昭如氏の戦争体験の内容と共に、製作陣のインタビューなどから作品について深掘りしていきます。
- ◆『火垂るの墓』の原作はどこで読める?
・『火垂るの墓』の清太と野坂昭如の相違点
- ◆実話では、妹に優しくなかった
- ◆小説『火垂るの墓』は野坂昭如の贖罪作品である
・『火垂るの墓』は、反戦映画ではない!
『火垂るの墓』の原作者・野坂昭如のプロフィール
小説『火垂るの墓』を手掛けた野坂昭如は、1930年10月10日に神奈川県鎌倉市に生まれますが、2ヶ月後に、実母は命を落とし、神戸の家に養子に出されます。
それから1945年に、空襲によって養父は行方不明、養母は大怪我。
妹は2人いたのですが、上の妹は空襲前に病死、下の妹は1歳6ヶ月で栄養失調を理由に亡くなりました。
終戦後、親戚の家に居候をし、学生生活がスタート。
窃盗をして逮捕されるのですが、その際に実父が保証人となったため、野坂姓に戻ります。
新潟大学を3日で退学し、シャンソン歌手を目指すために、早稲田大学へ入学。
その後、放送作家、作詞家、タレント、作家、歌手、政治家などマルチに活動の幅を広げます。
『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞し、自身の戦争体験を元に、反戦を世の中に訴える活動に専念。
85歳で惜しくも人生の幕を閉じました。
◆『火垂るの墓』の原作はどこで読める?
原作小説の『火垂るの墓』は現在、新潮文庫から刊行されている作品集『アメリカひじき・火垂るの墓』で読むことができます。
作品集には全6編の作品が収録されていますよ。
『火垂るの墓』の清太と野坂昭如の相違点
続いて、『火垂るの墓』は実話なのかという疑問を検証していきましょう。
簡単に紹介した野坂昭如のプロフィールと映画『火垂るの墓』を比較して異なる点をまとめました。
・野坂昭如は、鎌倉生まれですが、養子に出されたため、神戸大空襲の被災者となった
・節子は4歳の設定だが、実際には1歳の妹がいた
・清太と節子は血縁関係があるが、野坂昭如と妹は養子の子どものため血縁関係がない
・清太の母親は火傷を負うが生き延びる
・清太達を厄介者にするおばさんは、野坂昭如たちに親切だった
・2人は防空壕で生活したことはない
・野坂昭如は清太ほど妹に優しくなく、暴力を振るったこともあった
このように見てみると、大きく異なる点としてあげられるのは、「妹(節子)への態度」です。
当時、14歳だった野坂昭如にとって、話すことすらできない1歳すぎの妹との戦時下生活は、優しさや愛情だけで乗り切れるものではなかったようです。
◆実話では、妹に優しくなかった
清太は、節子にご飯を食べさせるために、盗みを働いたり、母が残したお金でメロンを買ったりと一生懸命に世話をしています。
しかし、実際の野坂昭如は、「少ないコメで作ったかゆを妹に食べさせるとき、スプーンですくう角度が浅くなる。自分はそこの部分を掬い、身の部分を食し、妹には重湯の部分をやる。」と原作小説に綴っています。
また、「アニメでは、節子は喋るが、実際の妹おは1歳4ヶ月。まだ、話すこともできなかった。妹を父や母のようには世話できない。妹にやらなければいけない食糧も我慢できず、自分は食べてしまい、最後は妹の足までに食欲を感じた」と衝撃の告白まで綴られていました。
さらに野坂昭如は、包み隠さず、自分の過去を悔やみさらけ出します。
「敗戦の混乱の中で衰弱化していく自分の妹を横目に、自分だけが食べ、放置し、しまいには妹の太ももにさえ食欲を感じた。飢えた妹はよく夜泣きした。泣き止ませるために妹の頭を殴り、脳震盪を起こさせたこともある」という耳を塞ぎたくなるような実体験を伝記本『わが桎梏の碑』に残しました。
14歳といえば、中学2年生。
物に溢れた現代社会でもネグレクトや子育てを放棄してしまう大人がいる中、戦争中に14歳の少年が1歳の妹を育てることは、どれだけ大変なことだったのでしょうか。
未熟な少年だった野坂昭如氏の壮絶な戦争体験は、大人になっても後悔として残り続けることとなるのです。
◆小説『火垂るの墓』は野坂昭如の贖罪作品である
野坂昭如氏は、終戦後に学校で勉学に励み、音楽を始め、芸能の仕事を忙しくこなす生活を送ります。
そんな中で、結婚し、第一子として女の子が生まれたことをきっかけに、過去の妹のことを思い出すようになったと語りました。
自分の娘がたくさん食事をして、大きく成長していく姿をみるたびに、「あの頃にどうして妹にご飯を食べさせてやれなかったんだ」と苛まれるそうです。
『私の小説から 火垂るの墓』では、「僕はせめて、小説「火垂るの墓」に出てくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死に様を、悔やむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。僕はあんなに優しくはなかった」と綴られていることから、強い後悔を読み取ることができます。
14歳の少年がやってしまった事実を見た時、一部の人は非難の声をあげるかもしれません。
映画版では、一部フィクションとして脚色されていましたが、家が全焼したこと、家族が火傷を負うこと、妹のために蚊帳の中で蛍を放ったこと、遺骨をドロップ缶に入れたことなどは、全てが事実。
自分の生死が関わる過酷な状況下を生き抜いた14歳を責めることはできるのでしょうか。
野坂昭如が明かした壮絶な戦争体験を見て、私たちは何を感じ取るべきなのでしょうか。
『火垂るの墓』は、反戦映画ではない!
野坂昭如氏の激白を元に誕生した『火垂るの墓』を読んで、「戦争はだめだ」ということを再確認すれば良いかというと、それはあまりにも安直すぎます。
映画を制作した高畑勲監督は、「(『火垂るの墓』は)反戦アニメではない。本作は、単なる戦争映画ではなく、お涙頂戴の可哀想な犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供が辿った悲劇の物語を描いた」とインタビューで明言しています。
それを裏付けるように、居候の身であるにも関わらず学校に行かず仕事もせずに遊んでいたり、母が残したお金を使わずに人気のない防空壕から盗みを働いたり、清太の行動に疑問を抱いてしまうような描写があります。
そしてクライマックスでは、幻影となった清太と節子が行動経済成長を迎えた日本社会の高層ビルを上から眺めるシーンが差し込まれていました。
富国強兵を掲げる戦争下の日本で、社会のシステムに馴染むことができなかった清太。
社会に馴染めず破滅していく構図は、現代を生きる若者にも通ずるものがあるのです。
冒頭のナレーション「昭和20年、9月21日夜、僕は死んだ」は、戦争を生きた清太も現代を生きる人々も変わらず、繰り返されている死であることを暗示していると読み解くことができます。
よって、これは「戦争映画」でも「反戦映画」でもなく「悲劇」にジャンル分けされる作品ということです。
まとめ
この記事では、ジブリ映画『火垂るの墓』の元となった実話について追究しました。
壮絶な真実を知ることで、一層物語に深みが増しますよね。
ぜひ、原作小説と一緒に映画を鑑賞してみてください。
キャステルの記事に テーマパークの最新情報をお届けします |