ハワード・アッシュマン作詞のディズニー映画曲とは?代表作・生い立ち・遍歴を紹介
作詞家ハワード・アッシュマンを知っていますか。今回は、ディズニー界で有名なアラン・メンケンとも関わりのあるハワード・アッシュマンの代表曲を始め、生い立ちから遍歴を紹介します。誰もが一度は耳にしたことのある有名曲も多いので、自分の好きなディズニー楽曲を手掛けているかも注目してみてくださいね。
こんにちは。
ディズニーリゾート大好き2歳と4歳の2児のママTommyです。
みなさんは、ハワード・アッシュマンを知っていますか。
ディズニーヲタクで神様とも言われるアラン・メンケンと共に、ディズニー映画に貢献した人物なんですよ!
今回は、ハワード・アッシュマンの代表曲や生い立ちと遍歴を紹介します。
- ◆幼少期〜学生時代
- ◆脚本家時代〜アラン・メンケンとの出会い
・ハワード・アッシュマン:『リトル・マーメイド』の楽曲制作
・ハワード・アッシュマン:『アラジン』の楽曲制作
・ハワード・アッシュマン:『美女と野獣』の楽曲制作
・ハワード・アッシュマン:闘病と最期
ハワード・アッシュマン:生い立ち
はじめに、ハワード・アッシュマンの生い立ちを紹介します。
◆幼少期〜学生時代
ハワード・アッシュマンは、1950年5月17日生まれ。
アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身の作詞家であり、ミュージカル脚本家、ディレクター、プロデューサーでもあります。
アッシュマンは、子ども劇場協会(CTA)で演劇を学ぶようになり、アラジンなどで主役を演じ活躍していました。
演技に目覚めたアッシュマンは、ボストン大学とゴダード大学で学び、タフツ大学のサマーシアターにも参加。
のちに、1974年にインディアナ大学で美術の修士号を取得しました。
◆脚本家時代〜アラン・メンケンとの出会い
1974年にインディアナ大学を卒業したアッシュマンは、ニューヨークへと拠点を移し、ミュージカル脚本家として活躍を始めます。
1977年には、ニューヨークのWPAシアターの芸術監督に就任しました。
当時、ニューヨーク市で開催された「BMIリーマンエンゲルミュージカルシアターワークショップ」で、ブロードウェイ版『タイタニック』の作詞を担当したモーリー・イェストンと同級生の「アラン・メンケン」に出会います。
のちに共同制作者として大ヒット作品を誕生させるアッシュマンとメンケン。
2人が初めて一緒に仕事をしたのは、1979年にヴォネガットの同名小説をミュージカル化した『ゴッド・ブレス・ユー、ミスター・ローズウォーター』でした。
また、アッシュマンが演出と作詞を担当したミュージカル『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』でメンケンと初めて本格的に手を組み、ドラマ・デスク賞優秀歌詞賞を受賞、グラミー賞にノミネートされるなど大成功をおさめます。
『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』は、アッシュマン自身により脚本が制作され、映画化もされていますよ!
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ハワード・アッシュマン:『リトル・マーメイド』の楽曲制作
ハワード・アッシュマンは1986年にウォルトディズニー・アニメーション・スタジオの『オリバー&カンパニー』の作曲と作詞に起用されました。
しかし、脚本まで完成していたにもかかわらず、残念ながら『オリバー&カンパニー』が公開されることはありませんでした。
やがて、ディズニーが数年前から取り組んでいた、30年ぶりに手掛けるおとぎ話『リトル・マーメイド』のオファーを受けます。
アッシュマンは、アラン・メンケンとともにディズニーアニメーション映画『リトル・マーメイド』のために楽曲を全曲書き下ろしました。
『リトル・マーメイド』でのアッシュマンとメンケンの功績は、“ディズニー・ルネサンス(ディズニーが長編アニメーション映画部門で再起を経験した時代)“初期の原動力となりました。
また、アッシュマンは、アニメーションとミュージカルの要素を合わせてストーリーを展開させていくスタイルはディズニーの作風に合っているため、ミュージカル映画を作り続けてはどうかと助言したそうです。
そして『リトル・マーメイド』の公開に際し、アッシュマンはミュージカル演技に長けた俳優を起用することを強く希望しました。
キャラクター同士の会話や表情などにもこだわりを持ち、一度決めたら絶対に曲げない性格だったそう。
そうして1989年11月にアメリカで公開された『リトル・マーメイド』は大成功をおさめました。
アッシュマンとメンケンは、ゴールデングローブ賞に2回、アカデミー賞に3回ノミネートされ、「Under the Sea(アンダー・ザ・シー)」でオリジナル楽曲賞を受賞しました。
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ハワード・アッシュマン:『アラジン』の楽曲制作
1988年『リトル・マーメイド』制作中に、ハワード・アッシュマンはディズニーに『アラジン』のミュージカルアニメ化のアイディアを売り込みました。
ミュージカルアニメ化が決定した『アラジン』は、何度もストーリーに関して話し合いが重ねられ、変更を繰り返し、当初構想していたもののいくつかの要素が取り払われる形で公開されました。
アッシュマンは『アラジン』のために、16曲の楽曲の作詞をしましたが、うち映画に収録されたのは「Arabian Nights(アラビアン・ナイト)」、「Friend Like Me(フレンド・ライク・ミー)」「Prince Ali(アリ王子のお通り)」の3曲でした。
いずれの曲も、代表曲と言えるものばかりで、実写版映画『アラジン』でも採用されていましたよね。
なお「アラジン」の楽曲は全てアラン・メンケンが作曲しています。
・【全13曲】実写版『アラジン』の主題歌&挿入歌まとめ!英語版と日本語版を聴き比べよう!
ハワード・アッシュマン:『美女と野獣』の楽曲制作
『アラジン』の制作初期に、ハワード・アッシュマンとアラン・メンケンは、ディズニー版『美女と野獣』制作のオファーを受けました。
アッシュマンは当初、『アラジン』の制作と、体調を崩していたこともあって自分の健康に集中したいと希望していましたが、最終的に『美女と野獣』の楽曲の制作を承諾しました。
『美女と野獣』の挿入歌に関しては、全楽曲の作曲をアラン・メンケン、作詞をハワード・アッシュマンが担当しています。
アッシュマンとメンケンの共同制作の集大成とも言えるでしょう。
アッシュマンとメンケンは、『美女と野獣』でグラミー賞、ゴールデングローブ賞、アカデミー賞を2回ずつ共同受賞しています。
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ハワード・アッシュマン:闘病と最期
ハワード・アッシュマンは、1991年3月14日に40歳の若さで亡くなっています。
実は、1988年の『リトル・マーメイド』制作中、アッシュマンはエイズの診断を受けました。
アッシュマンは、ニューヨークで治療を受けながら『美女と野獣』の楽曲制作に取り組み、全楽曲の作詞を完成させました。
最後に手掛けた楽曲「Something There(愛の芽生え)」収録の時点で、アッシュマンの病状は、ベッドから起き上がれないくらいに悪化していたと言われています。
しかし、息を引きとる直前までアッシュマンは仕事を最優先し、電話でスタッフやメンケンと打ち合わせをしていたそうです。
同時に制作に携わっていた『アラジン』では、「A Whole New World(ホール・ニュー・ワールド)」の作詞も請け負っていましたが、作詞前に亡くなってしまったため、急きょ作詞家のティム・ライスが手がけることになりました。
アッシュマンの死後数か月後に公開された『美女と野獣』のエンドクレジットには、以下のようにメッセージが掲載されました。
“TO OUR FRIEND, HOWARD,
WHO GAVE A MERMAID HER VOICE
AND A BEAST HIS SOUL,
WE WILL BE FOREVER GRATEFUL. HOWARD ASHMAN 1950-1991“
【人魚に声を与え、野獣に魂を与えた私たちの友人ハワードに。
私たちは永遠に感謝します。
ハワード・アッシュマン1950-1991】
アッシュマンを家族や兄のように思っていたメンケンは、アッシュマンの死後「彼が死んでしまったことで、チームだった私たちは終わってしまった。とても悲しい」と語っていたそう。
また、アッシュマンの墓石には“O that he would have but one mor song to sing”(ああ、彼が後もう一曲でも多くの作品を残してくれれば)“と、40歳の若さでこの世を去ったアッシュマンの死を悔やむ気持ちが刻まれています。
まとめ
アラン・メンケンと共に、今も愛される多くの楽曲を制作したハワード・アッシュマン。
もしまだ彼が生きていたら、多くの楽曲を聞くことができたかもしれないと思うと残念な気持ちになりますが、今後もアッシュマンの遺した曲を楽しみたいですね。
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